3 3月

「生の復活にある人間」

古典中の古典の書には、土の塵で神のイメージの中で創造された「個」が描かれている。
その「個」と「個」が互いの距離感が取れず、また、互いに自己コントロールできないままに罪(=死)の意志決定をする場面がある。
「個」と「個」は、自らの罪(=死)を罪(=死)とせず、他の対象物に罪(=死)をすりかえる。
これが、人間というならば、はじめから人間とも表現したくないし、人間を放棄したいくらいだが、神のイメージの中では、すでに罪(=死)への誘惑となるりんごを食べるという自由の選択までがすでに描かれている。
土の塵で創造された「人間」、その「人間」の本来の語源が、「耕す」という意味をもつならば、創造された自らが罪(=死)とたたかわないで、ありのままうけとめて、妥協なしの折り合いをつけられるパーソナリティ(=人格)が形成されるまで、「個」と「個」の間にある人間への道筋を諦めないで、汗を精一杯流して何度も何度も栄養ゆたかな「生命=いのち」の堆肥誕生まで、精魂込めて土の塵を掘り起こす日々にありたい。そして、つくられたあらたなる土の塵で再び創造された「生」の復活にある人間として生きてゆきたい。人間と表現して生きてゆく意志決定を選択するならば…